ザ・コブラ(The Cobra)は、かつてジョージ高野が名乗っていた覆面レスラーの ..
建畠:僕が入ったときには国立国際美術館という仮称は決まっていましたので、名称変更の現場に居合わせたわけではない。万博美術館の跡地利用から始まって、最初は市か府に寄贈を受けて美術館を作ろうとした。聞くところでは、前田藤四郎さん――この方は版画家の大御所ですけども――を中心に現代美術館を大阪に作ろうという会議ができた。アーティストを中心とした会議ですが、後に館長になられた木村重信さんも入っていらしたと聞いております。それで、市や府が受けられないことが分かって文化庁に要望することになったんです。文化庁もやる気はあるんだけども、お金もかかる話なので、側面から応援してもらったりして、外部の陳情と内部の体制作りが進んで、僕が行ったときにはもう準備室ができていた。その前に文化庁の内部で懇談会ができたそうです。正確には知らないんですが、河北倫明さんが座長だったと聞いております。ところが、現代美術館に対する否定的な論調があったんです。当時、近代美術館はあったけれど、東近美なんかは現存作家の個展をやらないという方針を立てていたんですね。これは噂なので分からないけれども、河北倫明さんを中心とした意見で、まだ海のものとも山のものか分からない、価値が定まっていない現代美術を、国家権力が購入したりその展覧会をやったりするのは危険である、価値が定まったときに公的な機関は正当な対象にすればいい、それまでは民間に任せるべきだという議論があったそうです。一理あるんだけどね。結果的に国立国際美術館という非常に間口の広いタイトルに決まりました。これは、一つは、万博の精神を受け継ぐということだと思います。そのときに立てられた方針は、日本美術の性質と発展を国際的な流れの中で考える、美術における国際交流をテーマにするというものでした。現代美術は国際交流が盛んだからそこにも焦点を置くということです。もう一つは消去法です。日本の近代は東近美で、近代以前は東博(東京国立博物館)でやっている。海外の近代までの美術は西美がやっている。工芸、日本画、近代洋画は京近美でやっている。博物館や美術館がまだ手を出してない部分となると、国際的な現代美術が中心になるでしょう、と。それは、中心になるけれど、あくまでも国際交流という視点から見て、今が最も盛んな時代だからということでもあるんですね。美術の国際交流史というと、例えば浮世絵と印象派とか、仏教図像の変遷とか、壮大な話になってしまう。そうしたものは資料として整えられないから、複製で作りましょう、と。だから、複製美術館というのも一時はあったんだよね。それは準備室が反対して、そうならなかった。でも、国際交流史の部分は、展覧会や複製資料によって整えようというので、作品購入費以外に、複製資料作成費というのがついたんですよ。だから当初は、石元泰博の両界曼荼羅のシリーズを購入したり、奈良原一高にリスボンに飛んでもらってリスボンの南蛮屏風を撮影してもらったり、石元泰博にニューヨークのMoMAのモネの睡蓮を撮影してもらったりした。それは複製資料であると同時に一級の写真家たちの眼ということを主軸に据えた。完全な複製は一つ実物大で作ってもらうんだけれど、その他にいろんなアングルの写真を撮ってもらった。石元泰博や奈良原一高に頼んで、彼らが興味を持つところを撮ってもらった。一つの展覧会が仕立てられるくらいの点数です。そういう写真を撮るのはなかなか難しいんです。1日も2日も会場を占拠するわけだから。特にニューヨークのMoMAなんかだとね。ただ、石元泰博という名前がMoMAにとってはカリスマ的な名前だったので、全面的に協力してくれたのね。大変な作業だったらしいですが、しかるべき経費をこちらで出してその複製を作りました。これは今でも時々貸出要請がありますし、展覧会としてお披露目しています。その意味では、僕はやった意味があると思いますが、ただ、複製をいくら蓄積しても、やはり美術館の資産にならないだろうというので、そのうちになし崩しに購入予算と一体化させてしまったので、今はそれを継続してはやっていません。やはり、国際交流史の中で充実した活動をする体制がとれないということもある。それから、スタッフの中心が本間館長以下、現代美術畑だったので、徐々に現代美術に特化していきました。でも、企画展では幅広く考えましょうというので、国際交流史に相当するようなこともやりました。ゴッホ展をやったり、ガンダーラ展をやったりしました。だから国立国際美術館というのは、ある意味では曖昧な、良く言えば間口の広い名前なんですね。僕は最初入ったときには、正直なところ、現代美術館がいいなと思っていました。国際美術館でも現代美術を中心にすることは支障ないんですが、はっきりしない名前なんでね。英訳しようがない。事実、英語のタイトルはNational Museum of Art, Osakaで、大阪国立美術館です。National International Museumは変な話だし、National Museum of International Artはあり得たと思うんだけど。International Artという名称をどう思うかってアメリカ大使館に聞いてみたこともありました。ただ、あまり好意的な返事が返ってこなくて、National Museum of Art, Osakaにしたんですね。ただ、今から考えると、国立国際美術館は結果的によかったんじゃないかと思います。というのは、後から話すかもしれませんが、美術館がどんどん細分化していっていますよね。当時、原美術館はあったんだけど、その後、広島市現代美術館ができて、現代美術館が一般化していきますよね。東京都現代美術館ができて、金沢21世紀美術館ができました。時代的、ジャンル的に細分化していますが、そういうものが美術館の本来の目的だろうかと思うんです。もちろん、専門館も確かに意味はあるんだけど、国立美術館はやはり総合館であるべきだということなんですね。それから、実質的には現代美術館であるとしても、国立国際美術館という名前によって、ターゲットを狭く絞るよりは、我々の問題意識の中でいろいろな活動を柔軟に自由にできるので、結果的に良かったんじゃないかと思っていますね。
コブラ会を観てんだけど、やたら盆栽が出てくる カラテメインだがなぜか盆栽どちらもきらいじゃないがさすがに盆栽は そこまで風格もないしw
建畠:僕は学芸員として15年間いたので数多くありますね。僕が直接携わったもの、メインのキュレーターだったり、アシスタント・キュレーターだったりしたものでは、まず「イスのかたち デザインからアートへ」(1978年)。これは宮島久雄さんがチーフ・キュレーターでやった展覧会です。宮島さんはデザイン史を専門の一つにしていますからね。これは、近代、現代のイスのデザイナーの作品を揃えると同時に、現代美術の中でのイスの表象を扱った展覧会です。例えば、岡本太郎の《座ることを拒否するイス》とか、草間彌生のペニスの生えたイスとかですね。倉俣史朗なんかもそうですね。現代作家が、イスそのものを作ったり、イス的な表象をしたりしているので、そういったものを集めた。イスのデザイン展としてやったんだけど、デザインとアートの境界領域を模索した点では先駆的な意味があったかもしれないね。それから、「現代の作家1 田渕安一 湯原和夫 吉原英雄」(1978年)で、僕は田渕安一(田淵安一)を担当しました。フランスに行って出品交渉をしたり、1人のアーティストの個展をしたという点では印象に残っていますね。あと、「近代イタリア美術と日本 作家の交流をめぐって」(1979年)。これは村田慶之輔さんが中心になってやった展覧会で、僕はアシスタントをやりました。この頃は、交流史という館の目的が生きていたので、「どこそこと日本」という展覧会を何回かやっているのね。「絵画のアール・ヌーボー、ヨーロッパと日本」(1980年)とか、「現代ラテン・アメリカ美術と日本」(1981年)とか。これは国際美術館の独特の視点でやっています。必ずしも全面的に成功したとは思わないですが。ただ、「近代イタリア美術と日本」は、そうした交流と同時に、アルテ・ポーヴェラの作品をまとめて日本で紹介した最初の例かもしれないね。イタリアに一、二度行ってリサーチしながら、もう死んでしまったけれど、イオレ・デ・サンナ(Jole de Sanna)というブレラ美術館の美術史家・評論家や、ルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro)、長沢英俊さんと接しながら、いろんなことを学びましたね。それまでのイタリアの知識というのは、例えば彫刻で言えば、マリノ・マリーニ(Marino Marini)とかジャコモ・マンズー(Giacomo Manzù)といった、日本でもよく紹介されていたメジャーの巨匠たちだったんだけど、そのリサーチの中で初めてアルテ・ポーヴェラの感化に触れました。それは、ジャスト・コンテンポラリーであると同時に、アルテ・ポーヴェラの人たちの歴史観、例えばバロック時代のキリコとか、メダルド・ロッソ(Medardo Rosso)の決定的な意味とか、多くのことを学びましたね。それが如実に展覧会に反映されるほど勉強はできなかったけれど、特にファブロや長沢さんから、ちょうど起ころうとしていた新しい歴史主義みたいなもの、ポストモダンに繋がっていくようなものを学んだ気がします。「まがいものの光景 現代美術とユーモア」(1980年)は、小規模ですが、僕が独り立ちして初めてやった展覧会です。英語だとSimulated Landscapeというタイトルなんです。シミュレーショニズムという言葉がまだない時代だったけども、今考えてみれば、シミュレーショニズムを先取りしたようなところがあったかもしれないね。日本の作家ですが、草間彌生とかいろんな人たちを集めて、ユーモアの光景であると同時にキッチュでもあり、シミュレーション・アートでもあるような、独特の発想でやった展覧会で、かなりの観客動員をしたし、ジャーナリズムの反響も大きかったですね。ただ、毀誉褒貶という感じだったかな。キッチュの価値は、その頃まだ美術館レヴェルでは承認されていないときだったので、反発を感じる人もいました。自分としては先鋭にやったつもりですね。「絵画のアール・ヌーボー ヨーロッパと日本」は、宮島さんの専門の展覧会で、僕はアシスト的に入りました。これも宮島さんらしい発想で、工芸の文脈でおさえられていたアール・ヌーヴォーの概念を絵画に導入して、もう一度そのサンボリスムを捉え直すという、面白い企画だったと思います。企画には関わっていないけれど、「河原温 連続/非連続 1963-1979」(1981年)は強烈な印象が残っていますね。
加冶屋:現代美術が中心ということですが、国立国際美術館は当初、現代美術館という名称になるという話もあったかと思います。最終的に国際という名前になったわけですが、そのあたりの経緯について建畠先生はご存知でしょうか。
このぐらいお金もかかっていく事業を、どうして経営診断のときに、担当
連載開始時期がコブラに近い『こち亀』の両さんも初期の話で「18歳未満は女じゃない(性的欲求を抱くには若過ぎるという意味)」という発言をしている。当時はたとえ漫画内の軽口でも大人の男が18歳以下の少女を本気で恋愛対象にはしない風潮だった。
多くの株式会社を作りながら、株式を独占するどころか次々と売却し、それによって得たお金でまた新たな会社を設立する。渋沢は金持ちになることより、国家社会のために事業を起こすことを優先したのです。
お金がかかり過ぎるのとキャスティングが難しいのとでなかなか進ま ..
レディの前身はエメラルダ=サンボーンという亡国の王女で、コブラにより命を救われた後に恋仲となるも事故により回復出来ないダメージを負ってしまい、それでも愛するコブラと共に居ることを望み、古代火星人の残したアーマロイドのボディへと魂を移し、コブラの永遠のパートナーとなった。
建畠:どうでしょうね。ジャーナリストの時代も、『芸術新潮』の編集部はアカデミックな雰囲気があったんです。不思議な編集部で、大学の先生がいっぱいいたんです。大学は週2回くらいで、後は編集部に詰めているという人がいて、学者たちが周りにいた。しかし国際美術館は、西洋美術館などに比べると、大学の研究者的な気風があるというよりはむしろ、現代美術をどんどんやっていこうという感じでした。村田さんは文化庁にいた人だからアカデミックな人ではないし、本間先生も東近美の副館長から来たから現場上がりの人だった。だからあまり学術研究機関という雰囲気ではなかったです。でも、宮島さんはキュレーターとしても非常に優秀な人で、研究能力も一級の人材でした。宮島さんは、基本的にはデザイン史を専門とする美術史家でした。そういう意味では、彼を中心に研究紀要を出したり科研費を申請したりしましたが、美術館の目的自体は現代美術が中心なので、展覧会を企画するという事業主体の美術館ではありましたね。
大事なところなんです。このチェックが以前までに比べると防衛に関しては ..
だから自分は、富に対して淡白でありたい。お金に貪欲な人間より、知識豊富な働き手が増え、国家社会を利することを強く望んでいる。
人情の弱点として、利益が欲しいという思いが勝り、富を先にして道徳を後回しにする弊害がある。それが行き過ぎると金銭を万能なものと考えてしまい、何より大切な精神の問題を忘れ、モノの奴隷になってしまいやすい。
アントニオ羽鳥「お前は!?」 アントニオ佐藤「その浅いアゴのシャクレは……、アントニオ中澤じゃねえか」
加冶屋:今日は国立国際美術館の設立準備室に移られた頃からお話を伺います。どういった経緯で移られたんでしょうか。
ご本人たちが絶望団地に帰ってきたところのセリフからハイタッチ、「新太さん、これ」ってお金 ..
このように渋沢は、お金に対する人間の弱点と、ともすれば国を危うくするお金の怖さを踏まえた上で、「お金とは淡白に付き合うことを心がけた方がいい」と言っているわけです。
お金の教育とかいろんな本当に自分が今までなんか育ってきた環境と ..
そこで私は大事な話をするフリをして、技をかけさせてくれることを頼むことにした。まさかコブラツイストを断る上司なんて、いるはずがない。そう私はにらんだ。
もちろん通販では買えるんだけど、ソノシートとかはいっぱい出ててお金もそこまではないしさ。 ..
建畠:宮島さんだったんじゃないかな。総力でやりましたね。これは国際巡回展で、内容自体には我々は関わっていないけれど、展示したときに壁にデイト・ペインティングがざーっと掛った光景というのは、陶然とする美しさでしたね。
「金庫をあけてお金を盗むことが?」 「まさか…! 金庫を開けることがさ ..
青木「原則単年度なんですけれど、この分野は専門ではないのですが、ちょっと勉強してみると単年度なんですけれど、例えば公共事業なんかで1年ではとても終わらないような公共事業なんかの場合には複数年度に跨ることはあるわけです。それを基本的には来年はこれくらいですよということでローンみたいな形で示すことはあって、これが少し難しい言葉なんですけど、国庫債務負担行為というらしいんですけれど、大竹さんがおっしゃるように国の予算は単年度で使うことを原則としているんだけれども、高額な物品購入とか施設建設などでは複数年度にわたって費用を支払うことができるような契約だということなんです。だから、国交省の公共事業なんかにも用いられる。ただし、これまでその上限が基本的に5年だったんですよね。だから5年後にはそれもチェックするというところだったんだけど、今度、防衛費の武器を買ったものに関しては10年までOKにしちゃおうということなわけです。で、これで1番問題なのは、国家権力というか公権力で1番チェックされなくちゃいけないのは我々が納めた税金をどうやって使ってるかということを国権の最高機関たる国会でチェックする。つまり予算の使い方をチェックするというのは財政民主主義で1番大事なところなんです。このチェックが以前までに比べると防衛に関しては非常に緩くなってしまうということと、これ東京新聞に書いてるんですけど、結構深刻だなと思うのはたとえば2024年度の予算の防衛費が7兆9500億円ぐらい。多いか少ないかという議論はとりあえず置いて、半分がローン契約の支払いなんですよ」
光線銃の頂点たるサイコガンを使うコブラにとって、大切な裏の選択肢。
『サラマンダー(シドの女神)』編の冒頭にて。剥がされた背中の刺青のみが残されているという衝撃の末路であった。……が、後にドミニクと刺青の有無を除いては瓜二つのシークレット・サンダースが登場。ドミニクと同じ銀河パトロール隊員だが正体は不明……だったが、後のエピソードにてドミニク当人らしいことが示唆されている。しかし、ドミニクとしての記憶が無い以上、コブラは珍しくモーションをかけておらず、ヒロインでは例外的に微妙な距離感の関係となっている。尚、TVアニメ『スペースコブラ』では原作に先駆けて生存しハッピーエンドとなっていた。
渋沢栄一は言った「お金は大切にせよ、そして軽蔑せよ」 佐々木常夫
東京新聞によると、「自衛隊の武器を最大10年の長期契約でまとめ買いできる時限法を恒久化する改正法が28日、参院本会議で自民、公明両党や日本維新の会、国民民主党などの賛成多数で可決、成立した。国の財政運営を監視するために、国会で毎年度予算を議決する「単年度主義」の例外措置が固定化されることになり、分割払いによる「兵器ローン」の増大を後押しする恐れがある」
Howto ตื่นเช้ามาแล้วพุงไม่ป่อง หน้าท้องแบนเรียบ | bewphanitaの投稿動画
建畠:そうですね。この当時は5本くらいの展覧会をやるのが一般的ですね。万博会場にあって交通の便が悪くて、多くの観客動員が期待できないのね。ただ、不思議な場所で、アングル展やゴッホ展をやると大量の人が来る。アングル展はおかしかったね。NHKと共催でやったんだけど、うちは現代美術館と思われているから、アングルって「角度」だと思ってきた人がいて(笑)、面白い展覧会をやってますねって言われたね。まあ、アングル展とかゴッホ展のときは、大量の人が来るんですよ。どうしてかというと、すごく不便なんだけども、逆に言うと、交通の便が日本で一番いいところなのよ。つまり、飛行場からも、高速道路のインターチェンジからも、新幹線からも、阪急・京阪からもアクセスできるあらゆる交通の要所なの。だから万博のときに1日20万人という人を確保することができたんだよ。大量交通機関で国際的なアクセスもできるっていう場所で、日本で一番交通の便がいいところなんですよ。ところが、万博が終わって最後のアクセスが全部断たれちゃったわけ。周辺までは行けるんだけども、あと2キロで断たれちゃっているんだよね。ところが、大量観客の展覧会をやると、断たれたところの交通機関が回復するんですよ。バスがピストン輸送する。だから、ブロックバスター展をやると東京の会場よりもたくさん入るんです。東山魁夷展をやったときは、東近美でやった展覧会がうちに巡回したんだけど、東近美よりうちの方が入館数が多かったのね。そういうような不思議な場所でもありました。でも、一般的には不便この上ない。周辺まで来れるんだけども、最後のアクセスができない。あまり人が来ない。その頃は、日本の財政も良かったし、高度成長も真っ盛りで、あまりうるさくなかったのね。地方にある国立美術館の入場者がどうでも。大蔵省も別にどうでもいいよみたいな感じで、文化庁もあまり気にしていなかった。まあ勝手にやったらみたいな感じで、それをいいことにして、結構、先鋭なつっぱった現代美術の展覧会をずっとやってきましたね。孤立した中で。そのときは、一種のかぐわしさというか端然とした姿勢を示したというふうに、我々内部では思っていました。外部からどう見えたかは知らないけどね。国立美術館としては、現代美術の先鋭な方向性でがんばっているというイメージはあったかもしれないね。